サイト・トップ
ガスの科学ブログ
ガスの科学目次
 
前の記事
51
次の記事
 
前へ
目次順
次へ

第51回 1−4 空気分離

 2018/1/18

  (3)深冷空気分離  

A深冷空気分離の歴史
 19世紀末にヨーロッパで、深冷空気分離法が発明された。酸素や窒素の発見から100年後、ガスを液化する研究が行われ、1877年にルイ・ポール・カイユテ(フランス、18321913年)が酸素の液化に成功し、1890年には、ジェイムズ・デュワー(スコットランド、18421923年)が空気の液化に成功している。
 研究者・技術者は、空気の液化に成功すると、すぐに酸素を分離する装置の開発を始めた。この当時の低温工学の話しは、様々な書籍に著されており、オネス、クロード、ハンプソン、カピッツァなど数多くの著名人の名前が出てくる。空気分離の技術史については、参考文献に詳しい。「混沌の探求から生まれた 空気分離の技術変遷史」、ガスレビュー増刊「空気分離のすべて」(19929月)には、深冷分離法とPSA法による空気分離の歴史が非常に詳細に解説されている。
  ここでは、簡単に深冷空気分離装置の歴史を紹介する。
 (a)気体の研究と酸素の発見(→ 2−1−3 理想気体の科学(3)大気と空気@酸素の発見
   アントワーヌ・ラヴォアジエ(17431794年、フランス)が、燃焼現象を「燃焼とは物質と気体が結合すること」と説明し(1774年)、その気体を「酸素」と名付けた(1779年)が、酸素はその前に発見されていた(1775年)。
 酸素を発見したジョゼフ・プリーストリー(17331804年、イングランド)は、物をもやす「燃素」フロギストン説(phlogiston theory)に従って様々な空気(気体)の研究を行っていた。
 現在の化学では、原子と原子が組み合わされて分子が作られ、物が燃える時には、その原子が酸素原子と結びつくと理解されるが、フロギストン説では、物が燃えるという現象は、物質から燃素(フロギストン)が抜けるために起こると理解されていた。
   プリーストリーは、硝空気、減容硝空気、海酸空気、アルカリ空気、礬酸空気(ばんさんくうき)などの「空気」を単離し、『さまざまな種類の空気につての実験と観察』という研究報告を発表した。この5つの「空気」を現代の化学式で表すと、NONO2HClNH3SO2となるが、当時は、そのような様々な性質をもった空気が存在し、その反応はフロギストンで説明されていた。
 塩化水素やアンモニアなど水に溶けやすい気体は、発生させることができても、水上置換では容易に捕集できなかったが、プリーストリーは水銀による捕集法を考案して、様々な「空気=気体」の単離に成功していた。
 プリーストリーの研究報告の第2版(1775年)では「脱フロギストン空気」が示され、後にこの空気は、ラヴォアジエによって酸素と呼ばれるようになった。さまざまな「空気」が発見されたが、そのうちのひとつが酸素であった。
   プリーストリーは、一貫してフロギストン仮説を信奉して研究を行っていたため、金属を燃やした時に灰が残るのは、金属が燃えてフロギストンが抜けるためであると考えていた。要するに、金属は灰とフロギストンが結合したものということになる。
  ラヴォアジエが示した化学反応の基本は、金属が酸素と結合して酸化物(灰)になるという概念であるが、フロギストン説これとは正反対の理論であり、現在、われわれが「酸素」と呼んでいる物質は、空気からフロギストンを抜いた脱フロギストン空気であり、われわれが「窒素」と呼んでいる物質は、フロギストン化した空気がである。ラヴォアジエは、フロギストン説に反対する論文を提出(1785年)、フロギストン批判を展開し、化学に大きな革命をもたらした。ラヴォアジエの説が理にかなっていると考えた多くの科学者が、フロギストン説から反フロギストン説へと転向したが、プリーストリーはフロギストン説から抜け出ることはなかった。
   ラヴォアジエは、フロギストン説を打ち破り近代化学の礎を築くことに成功したが、酸素が「酸の素」であると考えてこれにオクシジェーヌ(酸の素)という名前をつけるという失敗をした。ラヴォアジエは、元素や化学物質の命名法を定めた主要な人物であり、ヘンリー・キャヴェンディッシュ(17311810年、イングランド)が、発見していた水を作る元素にはイドロジェーヌ(水の素、水素)という正当な名前を与えたが、酸素に関しては大きな間違いをおかした。
 「酸」とは、塩基と対になって働く物質であり、一般的には「水素イオン」である。酸素と酸は関係ないことが、後年判明したが、元素の名前「酸素」は訂正されることがなかった。フロギストン説を覆し近代化学の礎を築いたラヴォアジエであるが、彼によって間違えて命名されてしまった「酸素」は、240年たった現在も、世界中の言語に定着しており、今後も変わることがない。中学や高校の理科の時間に「酸素の酸」と「塩酸の酸」が同じ文字「酸」を使うのに両者には化学的な共通点がないことに気づいて不思議に思う。
    プリーストリーが、酸素の存在を実験的に確認したのが1771年、酸素ガスを単離したのが1774年、研究報告が行われたのが1775年であるから、学術的には酸素の発見は1775年であるが、英国における「酸素発見記念日」は177481日である。
  酸素発見100周年を記念して始まったプリーストリー賞がきっかけとなって米国に化学会(学会)が発足、米国化学会では毎年、化学分野における卓越した業績に対してプリーストリー賞を授与、酸素を発見したプリーストリーの名前は化学史に大きく残っている。
  酸素発見の歴史
 
1660年頃 ジョン・メーヨー(16401679年、イングランド)が、血液の研究から空気中に酸素があることを示唆した
1773 カール・ヴィルヘルム・シェーレ(17421786年、スウェーデン)が「火の空気」(酸素)を発見した
シェーレは、プリーストリーよりも先に酸素を発見していたが、発表が遅れたため最初の発見者としては記録されなかった。本業は薬剤師であり新元素バリウムを発見しているが、学者にはならなかった。
1774 プリーストリーが酸素を発見
1810 サー・ハンフリー・デービー(17781829年、イングランド)が、酸素が酸の素ではないことを発見
塩酸を電気分解しても酸素が得られないことを示し、酸は酸素の化合物だとするラヴォアジエの主張を覆した。
 (b)空気の液化
   酸素の発見から100年後、19世紀後半になって酸素の工業生産が始まった。最初は空気を原料としたブリン兄弟の化学反応によるものであった(→ブリン・プロセス)が、19世紀末から20世紀初頭にかけて空気を原料とした蒸留分離法が発明され、酸素の大量生産時代が訪れた。
   蒸留は、気液の平衡を利用する技術であるため、空気が液化するような低温状態を実現する必要があり、まず、低温発生技術、空気の液化プロセスの発明があって蒸留装置が開発された。この技術に先駆的に取り組んだのが、ウィリアム・ハンプソン、カール・フォン・リンデ、ジョルジュ・クロードの3人であり、それぞれが独自に技術開発を行った。
   ウィリアム・ハンプソンは、空気の液化プロセスを最初に発明し数々の希ガスの発見に貢献した(→2−4 希ガスの科学 2−4−2 アルゴンの発見(10)5人のウィリアム)。
  ハンプソン自身は、本業は科学者ではなく、発明した空気の液化プロセスをBOC社に提供して同社のコンサルタントという立場で、ウィリアム・ラムゼーの希ガス研究に多大な貢献をしている。しかし、BOC社の経営は「ブリン・酸素会社」の名前の通り、ブリン兄弟が中心となって行われたためハンプソンの名前は科学史には大きくは残っていない(肖像も含めて非常に情報が少ない)。
   一方、ハンプソンの特許取得から10日ほど遅れて、同様の空気の液化プロセスの特許を出願したカール・フォン・リンデは、大学教授であり、自らの名前を冠した企業「リンデ社」を興した起業家でもある。リンで社の技術は米国や日本へも伝わり、世界の工業の発展に多大な貢献をしている。
 
  ハンプソンが考案した空気の液化プロセス。ハンプソン・プロセス、特許出願時の図面を参考にした。液体空気のタンクを reservoir、(リゾボア、主に貯水池)と表記するところが、英国人らしい?。
 供給した空気を圧縮した時の圧縮熱が系外に取り出されるが、この熱に応じた分だけしか、液体空気として取り出すことができないため、液化の効率は非常に悪い。しかし膨張弁によるジュール=トムソン効果だけで低温状態を発生させるという非常にシンプルな仕組みで空気の液化が可能となっている。ハンプソンは、BOC社の設備を夜間に動かし、何日もかけて液体空気を少量作ったようであり、それをラムゼーの研究室に供給、次々に新元素が発見された。
 このプロセスは、アルゴンが発見されたのと同じ年、1895年にハンプソンが特許を取得、少し遅れてカール・フォン・リンデ(ドイツ)が同じ特許を出願している。独立して研究が行われており、ハンプソン・リンデプロセスとも呼ばれる。(内容については「ガスの物理」と次の「ガスの化学」の章で説明する予定)
   もう一人の貢献者である、ジョルジュ・クロードは、彼らよりも少し遅れて空気の液化プロセスを開発したが、こちらは膨張機を用いたより効率のよいプロセスである。ハンプソンとリンデのプロセスは圧縮機と熱交換器と膨張弁(JT弁)を用いた非常にシンプルな液化方法であるが、系外への熱の放出が圧縮熱だけであるため、非常に液化の効率がよくない。クロードの方法では、膨張機が系外へ熱力学的仕事をするため、エネルギーを多く汲み出すことができ、液化の効率は非常によい。現在、実用化されている気体の液化装置には、ほとんどの場合、膨張機(あるいは膨張タービン)が用いられている。
  クロードもリンデと同様、自らの酸素会社を設立、現在は「エア・リキード社」として世界の2大企業のひとつになっている。
 (c)カール・フォン・リンネ(Carl von Linne 17071778年、スウェーデン)
   現在の、深冷空気分離装置の基本形を発明したのは「カール・フォン・リンデ」であり、彼の名前と彼の会社「リンデ社」は産業ガスの業界では誰もが知っているビッグ・ネームである。
   しかし、産業ガス以外の分野(フォーク・リフトの業界を除いて)では、カール・フォン・リンデの名前は、あまり知られておらず、科学史にもその記述は少ない(業界誌を除いて)。
  一方、 同姓同名とも言える「カール・フォン・リンネ」の名前は圧倒的に有名である。数々の大科学者を輩出してきたスウェーデンにおいても、1,2位を争うほど有名であり、18世紀以降の欧州の科学者の中でも特に名前の知られた「科学者」である。
   リンネの科学の範囲は、動物・植物・鉱物である。生物と無生物・鉱物を含む、いわゆる博物学のような研究を行う学者であるが、最も有名なのが、種、綱、目、属といった分類を決める「分類学の父」であるということである。
  われわれ人類は、リンネによって、動物(界)、脊索動物(門)脊椎動物(亜門)哺乳(綱)サル(目)直鼻猿(亜目)ヒト(科)ヒト(族)ヒト(亜族)ヒト(属)ホモ・サピエンス(種)と分類される。
  哺乳類(学名では哺乳網)、ホモ・サピエンスという呼び名や生物の雄♂という記号など、今日われわれがよく見る動植物の名前(学名)は250年前にリンネが自ら命名したもの、あるいは、以降の人々がリンネの分類法に従って決めたものである。植物の学名に、記号Lがあれば、それは一文字でカール・フォン・リンネを意味するほど、リンネは特別である。
  分類法は、生物の進化や分岐の研究にとって重要であるから、生物を専門にする人であればカール・フォン・リンネの名前ははずせないが、生物学に詳しくない人でもリンネが命名した生物の名前や分類名をどこかで聞いている。
 また、当時の科学は、生物(動物界、植物界)と鉱物を同じ博物学の中で取り扱っているため、リンネの研究は生物だけでなく、鉱物や金属にまでおよび、焦電効果(温度変化による電気ポテンシャルの生成)を発見、後にベクレルやキューリによって圧電効果として研究されている。日本でよく使われるセルシウス温度(摂氏℃)に最初に着目したのもリンネである。
 
 リンネの国、スウェーデンは、鉱物学・鉱工業の先進国であり、これまでに数多くの有名な科学者を輩出している。
  温度目盛に名前を残すアンデルス・セルシウス、プリーストリーよりも先に酸素を発見していたカール・シェーレ、タンタルを発見したアンデルス・エーケベリ、オーロラの研究で知られる天文学者のアンデルス・オングストローム(長さの単位でも知られる)、その息子で地球大気と温暖化の研究を行ったクヌート・オングストローム、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル(ノーベル賞を創設)などがいる。
  数多いスウェーデンの科学者の中から特に著名な人を挙げるとすると、電気化学のスヴァンテ・アレニウスと生物学者・鉱物学者のカール・フォン・リンネの二人になるとも言われ、紙幣の肖像にもなっている。
 (d)カール・フォン・リンデ(Carl Paul Gottfried von Linde18421934年、ドイツ)
   カール・フォン・リンデ(18421934年)は、カール・フォン・リンネから130年後のドイツの技術者であり、綴と発音が少しだけ異なるが、ほぼ同姓同名である。
   リンデは、技術者・経営者、大学教授であり、当時、急速に発展していった熱力学を実際の産業に応用し、深冷空気分離装置を発明し、産業ガス業界の最大企業のひとつリンデ社を興した。
   リンデの名前は、リンネほど有名ではないが、そのリンデを教えた指導教官と、リンデが教えた指導学生は、産業ガス以外の分野でも、あまりにも有名である。
   リンデがスイス連邦工科大学・チューリッヒ校で学んだ時の教官は、かのルドルフ・クラウジウス(17331804年、プロイセン王国)である。クラウジウスは、熱力学の第一、第二法則を確立し、エントロピーの概念を確立、平均自由行程の概念も導入した。熱力学の基礎を築き、分子運動論(分子の自由度)から酸素が二原子分子であることを明らかにしたのもクラウジウスである。
  熱力学は、科学だけでなく工学の基礎でもあり、これを学んだことがあれば、クラウジウスの名前は必ず聞く。クラウジウスのエントロピーを理解しようとしなければ、ガスを取り扱うことなどできないのである。
  リンデは、クラウジウスが確立していった熱力学を実学の分野で応用し、酸素を製造する会社を作った。また、クラウジウスの研究室ではヴィルヘルム・レントゲンも気体の物性の研究を行い、偶然発見した放射線がX線である。
    リンでは大学の教授となるがそのリンデの教え子であり、リンデがリンデ社に招き入れて開発責任者としたのがルドルフ・ディーゼル(18581913年、出生はフランスのドイツ人)である。
 彼が、リンデ社で研究した熱機関は、実用化され「ディーゼル・エンジン」という名前で世界中に広まった。ガソリンエンジンであるオットーサイクルやバンケルサイクルのエンジンは、日本ではあまりその正式名称で呼ばれることがないが、ディーゼルが開発したエンジンは、彼の名前からつけられたディーゼル・エンジン名前が普通に使われる。このエンジンは、様々な燃料に対応しているが、特に自動車用の軽油の場合は、ディーゼル燃料という呼び方もある。
  世界中で、ディーゼルの名前が広まっているが、彼の本業は、冷凍機の開発であり、空気分離装置を発明するリンデ社の開発責任者である。
    リンデの名前は知らなくてもその先生であるルドルフ・クラウジウスと生徒であるルドルフ・ディーゼルの名前ならば、知っているという人は多いはずである。
リンデ社は、現在、産業ガス事業中心のリンデグループ(The Linde Group、リンデガスとリンデエンジニアリング)となっているが、2006年までは、最大手のフォークリフト事業を保有しており(現在は、リンデ・マテリアル・ハンドリング社)、冷凍プロセスや内燃機関など熱力学を応用した多くの技術を実用化し発展させてきた会社である。
 
 
 (e)リンデ社による空気分離装置の開発
   創業時のリンデ社(リンデ製氷機会社)は、当初、冷凍機・製氷機を取扱い、醸造業、精肉業、冷凍倉庫業などを主な市場とした。最初の冷凍機は、自社製ではなく、マシネンファブリーク社(Maschinenfabrik Augsburg)、後のMAN社が製作したジメチル・エーテル冷媒の冷凍機を購入して販売した(1873年)。リンデは、その後、さらに信頼性の高いアンモニア冷媒の冷凍機を自ら開発した(1876年)。
    カール・フォン・リンデは、ミュンヘン工科大学の教授であったが、冷凍機事業が成功したため、経営が忙しくなり、一旦大学をやめ、リンデの冷凍機の研究は中断した。その後、再び大学教授に復帰し、そこで、新しい冷凍サイクルの研究を始めたリンデは、ダブリンのビール醸造会社・ギネス社のための二酸化炭素液化装置を開発(1892年)、低温機器を手掛けるようになった。
 カール・フォン・リンデは、続いて空気の液化に成功(1895年)、空気分離による酸素の製造装置を開発した(1902年)。冷凍プロセスには、ジェームズ・ジュールとウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)が見出したジュール=トムソン効果が利用され、向流熱交換技術が用いられた。
   リンデ社(Linde Aktiengesellschaft)は、すぐに米国におけるガス事業に着手、1907年に米国にリンデ・エアプロダクツ社(Linde Air Products Company)を設立した。  この会社は、後に、ユニオンカーバイド&カーボン社(UCC)のガス部門となり、現在は、産業ガス事業会社プラクスエア社(Praxair, Inc)となっている。ドイツ本国と米国にリンデ社があった時、両社は同じロゴやブランドを用いており、第二次世界大戦後の日本では、夫々、「西独リンデ、せいどくりんで」、「UCCリンデ」と呼んでいた時期がある。
  UCCリンデは、1940年代に米国における酸素ガスのオンサイト供給ビジネス(on-site gas supply)を確立した。これは、深冷空気分離装置によって製造される酸素ガスを、消費地の現場(オンサイト)に建設し、パイピングでガスを供給するという産業ガスの新たなビジネスモデルとなり、日本にもオンサイト方式のガスビジネスが導入された。
  最古の酸素会社、英国のブリン酸素(BOC)は英国酸素(BOC)に社名を変更、その後BOCインターナショナルとなっていたが、2006年にリンデ社がBOCグループを買収し、現在のリンデ社は、フランスのエア・リキード社と並ぶ世界で最も大きな産業ガス企業となっている。
   空気分離装置は、欧州、ドイツ、フランス、英国で発明されたが、酸素の大量生産に結びつく深冷空気分離の技術は、発明された直後から米国や日本などの工業国にも伝えられた。日本に導入されたのは、非常に早く、1907年には、帝国酸素(現:日本エア・リキード社)が設立され、1911年にヒルデブラント社製酸素製造装置(35m3/h)が日本酸素合資会社(後の日本酸素(株)、現:大陽日酸(株))によって輸入され、1913年には、クロード社製窒素製造装置が日本窒素肥料(現JNC)によって輸入されている。1922年には関連法規である「高圧瓦斯及び液化瓦斯取締法」(現:高圧ガス保安法)が公布された。
 (f)ダブルカラム法の開発
    カール・フォン・リンデは、息子のフリードリッヒ・リンデ(Friedrich Linde 1881〜-1917年)と深冷空気分離のダブルカラム法(Linde-Doppelsaulenverfahren)を開発(1910年)、現在に至る深冷空気分離装置の基本プロセスが確立された。このプロセスによって空気分離装置は、酸素の製造、窒素の製造だけでなく、酸素と窒素を同時に製造できるガス製造装置となった。(プロセスの詳細は別項)
   空気分離のダブルカラム法は、日本の古い文献には「複式精溜」などと訳されていたが、現在は、英語名の Linde double-column process から、そのままダブルカラム(プロセス)と呼ばれる。複式精溜という日本語は、内容を詳しく知っている人以外にはその意味が伝わらないが、ダブルカラム法であれば、蒸留塔が二つあることまでは何となく分かる。ダブルカラムは、非常にすぐれたプロセスであり、発明から100年以上たった現在も、その基本的な構成は変わっていない。
   リンデ親子による技術開発ということでは、同じドイツのポルシェ親子(父フェルディナント・ポルシェ、息子フェルディナント・アントン・ポルシェ)とよく似ている。ポルシェ親子はインホイールモーターの電気自動車を開発、その後、ダイムラー社で内燃機関を用いた自動車を開発し(1909年)、独立して自動車会社を起業、フォルクスワーゲンタイプIを量産化(1938年)、自動車産業を大きく発展させた。リンデ親子とポルシェ親子は、ほぼ同時代に、ドイツと欧州の産業技術発展に多大な貢献を行った。
 (g)ルドルフ・ディーゼル(Rudolf Christian Karl Diesel18581913年、フランス生まれ、ドイツ国籍)
   リンデ社が作る冷凍機や空気分離装置には、ガス圧縮機や空気圧縮機が必要であるが、当時は欧州でさえ、まだ電力網が十分には整備されておらず、圧縮機の動力の電動化も容易ではなかった。リンデ社の開発責任者ルドルフ・ディーゼルは、冷凍機の開発だけでなく、熱力学を研究、動力源の研究や開発を行った。
 ディーゼルは、ミュンヘン工科大学でカール・フォン・リンデ教授の指導を受けており、卒業後はリンデの助手となり(1880年)、冷凍機の設計などに従事、リンデ社の開発責任者となった(1890年)。ここで、ディーゼルは、冷凍機の研究だけでなく、アンモニア蒸気機関、内燃機関などの動力機関の研究も進め、特にカルノーサイクルを研究、空気の圧縮を利用した内燃機関(オイル・エンジン)を発明した(1893年)。
    リンデ社は、内燃機関のビジネスを広げなかったが、ディーゼルの発明したこの内燃機関は、その後、スルザー社やマン社で実用化され、多くの企業が採用し、世界に広まり、その後、彼の名前をとって、ディーゼル・エンジンと呼ばれるようになった。ディーゼルが新エンジンを開発した当時は、まだ中東の大油田は発見されておらず、欧州の石油も豊富ではなかったため、燃料は野菜オイル、今で言うバイオ燃料に頼らなければならなかったが、幅広い燃料に対応することができ、非常に効率の高い機関であることが評価された。
   ディーゼル・エンジンは、船舶、自動車、鉄道、航空機などの輸送機器や建設機械、農業機械、ポンプ、発電機など非常に広範な分野で利用されるようになったが、特に大型の内燃機関では、ガソリンエンジンよりも優れていた。カール・ベンツらが開発したガソリンエンジンは、点火装置によって燃料に着火するため、小さな燃焼室を作ることは可能であるが、大きな燃焼室では、火炎伝播が難しく効率がよくない。大排気量の点火装置着火型エンジンでは、小さな燃焼室を多数組み合わせた多気筒エンジンにしなければならず、機械損失が大きくなるため、大型のエンジンには向いていない。
  これに対して、ディーゼルが開発したエンジンは、圧縮着火を用いるため、大きな燃焼室が可能であり、排気量の大きなエンジンの製作が容易になった。ディーゼル・エンジンによって、船舶や鉄道用エンジン、バスやトラックのような大型車両への内燃機関の適用が可能となり、蒸気船や蒸気機関から内燃機関への移行が進んだ。
   空気分離装置が発明された時代は、熱力学が発展し、熱機関の開発が進んだ時期と重なり、動力源の開発にも様々な選択肢や挑戦があった。しかし、間もなく、大型の発電所が建設され電力網も発達し、電動モーターの性能が向上したため、深冷空気分離装置が使用する圧縮機の動力には電気が用いられるようになっており、現在の空気圧縮機の大半が電動機駆動の圧縮機である。そのため、空気分離による産業ガスは、製造コストに占める電力コストの割合が大きく、電気から作られているように表現されることもある。
  しかし、実際に空気分離装置が必要としているのは、空気の圧縮動力であって、電気化学や電気分解のように電気そのものを必要としているのではない。電力は動力源の選択肢のひとつであり、たまたま現在は電動が有利であるということであって、酸素や窒素はけっして電気の缶詰ではない。
 (h)ジョルジュ・クロード(18701960年、フランス)
   ジョルジュ・クロードは、1902年に空気の液化に成功、ネオンやヘリウムを分離している。クロードが創業したエア・リキード社は、リンデ社と並ぶ最も大きな産業ガスメーカーのひとつである。
 
 クロードは、1898年にラムゼーが発見した新元素ネオンをガラス管内に封入して放電、非常に明るい照明器具を発明した。クロードネオン社のネオン管が広まり、ネオンサインは米国などで大ヒットし、広告塔の代名詞になった。
 空気分離プロセスを発明し、産業ガスの礎を築いたクロードであるが、第二次世界大戦後には、連合軍に捕らえられナチス・コラボの罪によって終身刑となった。
 当時のフランスでは、様々な分野でコラボラシオン(通称コラボ)に対して報復が行われ(特にファッション業界など)、個人が投獄され、会社が解体、国有化されることもあったが、クロードもその一人であった。
   現在、コラボ(協力者)という言葉は、お互い協力し合って良いことを行う(コラボレーション)という意味で使われること場面が多いが、第二次大戦でフランスが開放された時には、フランス人でありながらナチスへの利敵協力を行った者を意味する言葉として使われた。
 しかし、クロードは、海洋温度差発電(OTEC)の研究功績などが認められ、その後釈放された。クロードは、OTECの概念を発案、キューバやブラジルなどで実証研究を行っていた。
  クロードは科学者であり高度な技術を実用化する技術者であり、ガスの製造だけでなく、ガスの利用技術や周辺機器の開発にも活躍している。彼の会社は、空気分離装置、ネオンサイン、海洋温度差発電の他に水中での空気呼吸器を開発、「アクアラング」はスクーバダイビング装置の代名詞のように使われている。
   クロードの時代の膨張機は、レシプロの膨張エンジンであったが、ピョートル・カピッツァ(18941984年、ソ連)が、膨張タービンによる空気分離装置を実用化(1939年)した。現在の深冷空気分離装置の主流は、遠心式の膨張タービンを用いており、深冷空気分離装置で膨張機といえば全て膨張タービンを表わす。