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第5回  ボイルの法則(4)ロバート・ボイル・ 錬金術から化学へ
2017/10/8
 
修正 11/20

「ボイルの法則」の発見者候補は4人ほどいるらしい。おそらくロバート・ボイルあるいはその助手であったロバート・フックが発見したのではないだろうか。はじめにボイルのことから書いてみようと思う。
ロバート・ ボイル(Sir Robert Boyle、1627〜1691年)


 世界には、古くから様々な錬金術(アルケミー、alchemy)があった。
 アルケミーとは、卑金属を貴金属に変えようとする学問あるいは試みのことであり、特に金(きん)を作ろうとするものであるため、日本語では錬金術(れんきんじゅつ)と訳されている。古くは、古代ギリシア錬金術、イスラム錬金術、インド錬金術、中国錬金術などがあり、中世になって欧州にも伝わった。
   錬金術は、現在の「科学」とは思想が異なり、今考えるとおそらく「魔法の世界」の話である。当然、金という元素を合成できたという実例はないが、錬金術は、金属に限らず、様々な物質や生物までを対象としており、科学が生まれる前の「科学のようなもの」であって、一部の技術は科学の時代にまで続いている。たとえば、紀元前2世紀にイスラム錬金術によって発明されたアルコール蒸留器は「蒸留装置」の起源であり、現在の化学工学における蒸留分離へとつながっている。中国の錬金術では、火薬が発明されて現代の科学へつながっている。
   イスラム錬金術は、やがて欧州に伝わり、12世紀に「西欧錬金術」が現れた。ボイルの時代の欧州は、「17世紀の欧州の科学革命」(新科学)の時代といわれるが、ボイルの法則が発見された当時は、錬金術の「魔法の世界」とまだ自然哲学の枠組みの中にあった「科学の世界」は、その境界があいまいで、はっきりとしていなかった。現在の言葉で言えば、オカルトとサイエンスが、入り混じっていて、違いがはっきりとしていない時代である。
   ボイルの職業は、西欧錬金術の錬金術師であり、基本的には、ボイルも金属を変質させることができると信じて研究を行っていた。これは、ボイルの15年後に生まれたアイザック・ニュートンも同じで、ボイルを「最初の化学者」と呼ぶように、オカルト(超自然的)研究に熱心であったニュートンのことを「最後の錬金術師」と呼ぶ人も多い。ニュートンの研究の大半がオカルトであったため、このように呼ばれる。賢者の石(卑金属を金に変える物質)、エリクシル(不老不死の万能薬)、予言の書など、現在ではとても科学とは言えない研究に熱心であった。ニュートンが提唱した「万有引力の法則」も、当初はオカルトと言われて批判されたが、後の研究者によって科学的であると評価が変わった。
  現在では、ボイルを化学者、ニュートンを物理学者としているが、これは、後世の人が彼らの業績をみてそのように呼んでいるだけであり、実際は、当時の多くの学者が、錬金術師である。ボイルやニュートンの時代は錬金術と科学の両方が入り混じっており、新科学が生まれた時代である。
   スコラ哲学に反対し「近代哲学の父」と称せられるデカルトも、その手法にはスコラ哲学の方法論を用いた。同じように、「近代化学の父」と称せられ錬金術を過去のものとしたボイルであっても、その手法や出発点は錬金術である。したがって、錬金術師であったボイルは、錬金術そのもの(金属の変換)は信じていたということであり、それが当時の限界といえる。
  しかし、ボイルは、先人から伝わる知識の先入観には惑わされないという信念も持っており、現在の言葉でいえば、物理、化学、生理学といった様々な分野において「科学的」な実験を行ったことが最大の特徴である。実験や観測よりも観念が重視されるそれまでの自然哲学に対して、具体的な実験結果を事実として受け入れ、それを理論化するというボイルの手法は、その後の自然哲学の主流になっていった。 ボイルの研究やその手法は、それまでの錬金術を大きく変え、錬金術や医学の道具であった化学的手法を「化学」という学問に変えていった。科学者は錬金術師の中から生まれた。

   ボイルは、著書「懐疑的化学者(原題 "The Sceptical Chymist: or Chymico-Physical Doubts & Paradoxes")」(1661年)の中で「元素仮説」を提唱した。多くの書物がラテン語で書かれた時代に英語で書かれたこの本の表題には、"CHYMIST"とあり、これは、おそらく後の "chemist" であり、日本語では「化学者」と訳されている。
 元素説には、古代ギリシアから伝わるアリストテレスの四元素説(火・水・空気・土の四元素)や16世紀のパラケルススの三元素説(水銀・硫黄・塩の三原質)があり、万物は火によって「元素」(element)に分解されると考えられていた。しかし、ボイルは、これらの思索中心の仮説を否定し、実験を重視して元素を探すべきと主張し、元素が粒子であるという粒子仮説を唱えた。
 ボイルは、水や鉄や石のような塊は、目に見えない粒子がたくさん集まって作られていると考え、元素とは、物質を分解していった時に究極に得られるものであるという仮説のもとに、実験を行った。
「懐疑的化学者」の表紙 (1661年) (Wikipedia)
   また、ボイルは、この時、既に、混合物と化合物、単体と化合物も区別して考えていたが、古い元素説を打ち破ることはできず、元素が原子や分子から構成されるという原子・分子の概念は、18世紀以降の科学によって明らかにされていった。
ボイルは、物質の基本構成要素として元素が存在するという立場をとった「最初の化学者(chemist)」であり、著書の中で次のように述べている。「これまで、化学(chemistry)は、錬金術(alchemy)や医術のための道具であって、自然科学(natural philosophy)の探求が目的ではなかった。そのため、非常に多くの見落としがあった。自分は化学的手法を哲学的目的に用いたいと思うようになった」。
   ボイルが目指した「純粋自然科学」(pure science)は、周囲からは、空気の重さばかりをはかっている実用性のないものだと批判されることが多かった。しかし、その後の科学の発展をみると、魔法の研究よりも科学の研究の方が実用的であり、その批判は間違いであったことが分かる。
 近代の科学は、ボイルによる気体の研究と新たな元素説から始まり、自然科学(natural philosophy)は、18世紀になって「物理学(physics)」と呼ばれるようになった。本来、物理学は、自然科学全てを含む幅広い学問であるが、19世紀以降は、特に物理現象のみを追求するようになり、生物学や化学などとは分けて考えられるようになった。