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第8回  ボイルの法則(7)アイザック・ニュートン、最後の錬金術師
2017/10/10
 
修正 10/26

アイザック・ニュートンと王立協会
 ガスの科学、ボイルの法則を考える時、ボイルの強力な助手であり、ボイル以上の科学者であったかも知れないフックの業績を考えない訳にはいかない。しかしこの17世紀の偉人フックの業績の多くがニュートンによって消され、長い間、その人物像まで歪曲されてきたということは、多くの科学を志す人々や技術に関わる人々にとって、大変ショッキングなことである。
 20世紀中盤まで、ニュートンという人物は非常にすばらしい学者であり偉人、聖人とも思われてきたが、ニュートンやフックを研究する人たちによって、正しい科学史が見直され、それらの中には全く事実に反することが多いということが分かってきた。
   アイザック・ニュートンは、ボイルより15歳、フックより8歳若く、ボイル同様、17世紀のイングランドの錬金術師である。ロンドン王立協会はオクスフォードの学者が多かったが、ニュートンは主にケンブリッジを中心に活動、26歳の時にケンブリッジ大学の名誉ある地位ルーカス教授職につき、29歳の時に、ボイルやフックと同じ王立協会の会員に選出された。
 

 ニュートンは「光の粒子説」を提唱した。20世紀の科学の解釈では、光は波と粒子の二つの性質を持つ光量子であるが、それまでは、波動説優勢の時期と粒子説優勢の時期が交互に訪れている。この当時は、多くの現象が、クリスティアーン・ホイヘンスによる「光の波動説」によって説明されていたため、多くの学者が波動説を支持、の粒子説は実験と理論の両面から劣勢であった。ニュートンの粒子説も科学的におかしなところが多く、波動説を主張するフックは、ニュートンを厳しく批判した。
  ケンブリッジでは「光学」の研究で有名になり、製作した反射式望遠鏡でも知られるようになったニュートンであるが、その望遠鏡はフックの製作した高性能の望遠鏡とは比較にならないほど性能が劣るものであり、実験、数学、工学の能力が高く万能のフックに対してニュートンの実験技術は大きく見劣りした。実験科学では全くかなわないと思っていたニュートンであるが、自身が得意と考えていた理論でも、光の粒子説が大きな批判を浴びてしまった。
 フックやホイヘンスなどの科学者や数学者によって批判されプライドを大きく傷つけられたニュートンは、周囲を憎むようになり、やがてフックとニュートンは激しく対立するようになった。


最初はオカルトだと思われていたニュートンの万有引力の法則も、やがてニュートンの力学が体系として整えられ、高い評価を得るようになった。

    リンゴが落ちるのを見てニュートンが万有引力を発見したなどという、非科学的で根拠のない話を信じる大人はあまりいないが、子供のころは本気で信じたこともあった。高校生くらいになると、さすがにこんな子供だましには騙されなくなるが、それでも、ケプラーの法則などからニュートン力学が生まれ、洗練された体系を持っていると思っていた。
  しかし、大学生くらいになると、ニュートンの時代にはまだ「エネルギー」という概念すら生まれておらず、ヤングがエネルギーという概念を「発明」するまでの物理学は、現在のものとは異なり、何となくなにかすっきりとしない部分を含んだままであったことを知る。
  ラグランジュが解析力学を確立して、はじめてニュートン力学が数学的に洗練化された。それまで、科学なのか魔術なのか曖昧で、実用上も使い物にならなかったニュートン力学を再発掘して、組み立てなおし、使える科学にしたのは、解析力学やエネルギーなどを生み出した18世紀以降の科学者の成果である。その後、19世紀後半まで、ニュートン力学は物理学の基本として科学・技術の発展に大きな貢献を果たした。しかし、20世紀になって、ニュートン力学の大半が破綻し、量子力学や相対論なしには自然界を理解することはできなくなった。ニュートン力学が基本原理とした、絶対空間や絶対時間の概念が破綻し、そのままでは、何も説明することができず、現代の電子技術をはじめ様々な科学技術も生まれれなかった。ガスの科学でも量子化学の理解がなければ、気体の液化やガスの利用もできなかった。
  しかし、それでも、やはり19世紀までの古典物理学の基礎は、ニュートン力学であり、現代の科学はその延長線上にある。そしてそれを生み出したアイザック・ニュートンは、すごい学者だと多くの人々が「思っていた」。
「プリンキピア」
   ニュートンの伝記は、様々な本に載っていて、名誉革命によって国会議員になったこと、ロンドンに進出して、造幣局長になったこと、極めて権力志向が強く権威を振り回したことなどがよく知られる。
  ニュートンは「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」を王立協会に提出した(1687年、44歳)。当初、財政的な問題もあって出版ができなかったが、天文学者エドモンド・ハレー(16561742年、イングランド)が、ニュートンを説得、ハーレー自らが資金援助を行ってプリンキピアを自費出版させた。プリンキピアには、慣性の法則や万有引力の法則が記述されたが、ニュートンは、(重力の法則の発見者はフックであるが)万有引力を数式にしたのは自分であると主張し、フックと万有引力の先取権をめぐり激しく争った。
    プリンキピア発行の翌年、1688年、イングランドに名誉革命(無血革命)が起こった。イングランドをカトリック国にしようとしたジェームズ2世は追放され、新たにプロテスタントの国王・女王(夫妻共同統治)が迎えられたが、名誉革命への貢献が高く評価されたニュートンは、ケンブリッジの有名人となり、新たな議会の国会議員となり、造幣局にも職を得た。
  1699年には、造幣局長になったニュートンは、ケンブリッジからロンドンに移り住み、1703年には王立協会の会長となり、1705年にはナイトの称号を得た(科学者として初の爵位)。ニュートン主義と呼ばれる科学の体系は、革命で混乱していたイングランドの社会を支える基本思想として高く評価されていった。

ニュートンが王立協会の会長に就任。フックを抹消

    ニュートンは、それまでの王立協会の会長が数年で交代していた時に24年という極めて長い期間、会長職に君臨した。
  ロバート・フックの存命期間は、
16351703年、アイザック・ニュートンは1643年〜1727年である。ニュートンは、フックが亡くなると直ぐに王立協会の会長に就任(1703年)、フックに関する多くの記録を抹消した。
  ニュートンは、グレシャムカレッジからクレーンコートへの王立協会の移転を強行し(
1710年)、フックの痕跡を記録だけでなく物理的にも抹消しようとした。フックが製作した貴重な実験装置は全て失われ、著した論文の多くが行方不明となった。写真のない時代、著名人は肖像画によって記録されることが多く、王立協会の設立・活動に多大な貢献をしたフックの肖像もそれまではグレシャムカレッジに飾られていたが、ニュートンが焼き捨てたため、フックほどの偉人では唯一その肖像が未だに不明のままである。
  わずかに残ったフックを記録する伝記類には、フックは人間性に相当大きな問題があり、非常に性格の悪い人物であったという評伝だけが残るようになり、
19世紀以降はニュートンの方が偉人であるという評価が拡大した。20世紀の研究によって、このようなフックの評価は正反対であったと指摘されるようになっている。
   世の中には、科学や技術をめぐる論争や紛争は少なくないが、ここまでの人間的な確執は極めて珍しい。しかし権勢を振るったニュートンといえどもフックの痕跡を完全には消すことはできず、出版されたミクログラフィアは残り、ボイルが行った実験など様々な実験結果は残った。
 
20世紀になってから、行方不明となっていたフックの資料が徐々に発掘されるようになり、フックの実像を見直す科学史の研究も行われている。フックは大きく見直されるようになり、調査の結果、フックの性格はそれまでの記録とは全く正反対であったことなどが示されている。フックの記録が抹消されただけでなく、事実の歪曲があったのかも知れない。
  おそらく心を病んでいたニュートンは、懸命にフックの痕跡を抹消しようと動き続け、ついには王立協会に飾られていたフックの肖像を焼き捨て、王立協会を一時的に移転してまで物理的にも様々な痕跡を消し去った。造幣局長時代には贋金造りの犯人を追いつめて処刑していったニュートンである、そのニュートンがひとりフックの肖像を焼き捨てる情景を想像すると、とても悲しい。ニュートンの名前のつく様々な法則や理論が本当は誰の成果だったのか、信じられなくなってくる。
有名なライプニッツとの紛争。先取権争い
    「科学の天才」は人間関係の問題を抱えることが少なくないが、ニュートンが関わった紛争はとくに有名である。
  ニュートンは、感情的な軋轢からフックの抹消を図ったが、そのほかに、二件の有名な紛争が知られている。
 ニュートンは、微積分をめぐって、ゴットフリート・ライプニッツ(
16461716年、神聖ローマ帝国ライプツィヒ)と争った。ライプニッツは「極大と極小に関する新しい方法」(1684年)で微分法を発表、「深遠な幾何学」(1686年)で積分法を発表した。ニュートンはプリンキピア(1687年)の中で微積分を発表した。
   発表は、ライプニッツの方が早いため、当初はニュートンによる盗作が疑われた。しかし、先取権に関する審査を行ったのは英国王立協会である。王立協会は、逆に発表前のニュートンのアイデアがライプニッツに盗まれたとした。ライプニッツは英国人ではないが王立協会の会員であり、会長であるニュートンから盗人にされてしまった。
  この紛争により、イングランドと欧州の科学界の間にはしばらく険悪な関係が続いた。
 微積分の考え方自体は、ライプニッツやニュートンよりも古い時代から知られており、それを数学の書式でまとめて体系化したのはどちらが先かというのがライプニッツとニュートンの間の問題である。現在では、ライプニッツとニュートンは、それぞれ独自に微積分学を確立したのではないかという説も有力であるが、今日、われわれが知っている微積分の記法はライプニッツの記法である。
フラムスティードの抹消。ニュートンとハーレーによる疑惑の出版
   ニュートンによるフックの抹消、ライプニッツとの紛争は、プリンキピアの発行をきっかけに、起こった事件である。
 ニュートンのもうひとつの有名な事件、フラムスティードの事件もプリンキピアに端を発している。
  ニュートンは、プリンキピアを執筆する時に、イングランド王室天文官(天文学者)であるジョン・フラムスティード(16461719年、イングランド)から観測データを入手した。しかし、当時のニュートンの力学では、月や太陽の複雑な運動を記述することができなかった。そこで、ニュートンは、自分の理論に合わないデータを排除するために、論文からフラムスティードの名前を抹消した。
    過去に彗星の発見をめぐって両者が対立、ニュートンが自説を取り下げたという経緯があり、ニュートンは、フラムスティードに感情的確執を持ち、論文からフラムスティードの名前を消すだけでなく、数々の嫌がらせを行った。
  ニュートンは、フラムスティードが天体の観測記録である「天球図譜」を出版しようとしたのを差し止めた。ハレーとニュートンは、フラムスティードの信用を失墜させるために、逆にフラムスティードの古い不正確な観測記録を王立協会から出版した(
1712年)。
  フラムスティードは、勝手に自分の記録が利用されて出版されたことに抗議して提訴、裁判に勝訴した。その結果、ハレーとニュートンによる王立協会版の天球図譜は回収されることになり、フラムスティードは、図書館などから可能な限り探し出して回収・焼却した。一方、ニュートンは、プリンキピアの改訂版で引用文献などからフラムスティードの名前を完全に抹消した。
 グリニッジ天文台の初代の天文台長(王室天文官)であるフラムスティードと王立協会会長のニュートンの間は完全に決裂した。ついに、フラムスティードは、天球図譜を出版できないまま亡くなってしまったが(
1719年)、翌年、ハレーがグリニッジ天文台長に就任したため、正しい天球図譜はその後も出版されることはなかった。
   しかし、ニュートンが亡くなると(1727年)、すぐにフラムスティードの遺族は、協力者を得てフラムスティードが遺した「正しい天球図譜」(Atlas Coelestis)を出版した(1729年)。 これは、当時の世界最高の星図となり、その後の航海や測量の基礎となった。(15世紀から17世紀にわたる欧州の大航海時代、羅針盤と正確な星図は航海術にとって非常に重要であった)
 天球図譜に記されたグリニッジ天文台は、測量と天文の基準点となり、その後、世界の標準時はグリニッジ標準時(
Greenwich Mean Time, GMT)となった。
  なお、現在の世界の時間(時刻系)には、「協定世界時
UTC」が使用されているが、通信分野では現在もGMTが同義に用いられている。
ニュートンの評価と実像
    ニュートンは、ケンブリッジ大学教授、議員、造幣局長、サーの称号、英国王立協会長など科学と俗世に大きな地位と権力得て英国の名士となったが、一方では、フックとフラムスティードを抹消、ライプニッツと紛争を起こした。
  英国以外の欧州一般では、ニュートンの研究手法や理論、数多くのオカルト研究、人物の評判は非常に悪かった。万有引力の法則も根拠が不明のオカルトと考える人もいた。
   しかし、その後に現われた解析力学(ラグランジェ力学とハミルトン力学)によってニュートン力学は、数学的に洗練され、再公式化され、19世紀には非常に高い評価を得るようになった。ラグランジェによるエネルギーを表現する関数「ラグランジアン」やトーマス・ヤングによる「エネルギー」の概念が登場し、エネルギーの形態にも運動エネルギー、ポテンシャルエネルギー、熱エネルギーなどの概念ができ、ニュートンの力学はオカルトではなく非常に洗練されたひとつの科学の体系となっていった。
  やがて、ニュートンの悪い部分は伝えられることなく、その業績が美化され、伝説的な天才科学者としてのニュートン像が作りあげられた。
 

  20世紀の経済学者ケインズは、ニュートンの本原稿まで集めてニュートンを詳細に研究、最初の科学者ではなく、「最後の魔術師」と呼んでいる。ケインズがニュートンを研究した動機は、同国人の英雄であり尊敬するニュートンをより深く知りたかったということであるが、結果は逆になった。ケインズ以外にもニュートンやフックの実像を研究し、広く知られている歴史が捻じ曲げられているということを示した人は少なくない。
  真実は、歴史研究家でなければ分からないが、フック、フラムスティード、ライプニッツの3つの事件だけは紛れもない事実のようである。虚像と実像の差は非常に大きいと言わざるを得ない。
  科学史の専門家でない一般の人々は、ニュートンの論文の原文やその他の資料にほとんど触れることがないが、
20世紀になって、科学史研究者や経済学者によって、失われたフックの記録やニュートンの研究が行われるようになってきた。美談や脚色ではない錬金術師、造幣局長、オカルト研究家、権力者としてのニュートンの本当の人物像が研究されるようになった。

    しかし、現在もニュートンを天才的物理学者、偉人として尊敬し信じる人が多い。
  あのアインシュタインは、最も尊敬する科学者として、アイザック・ニュートン、マイケル・ファラデー、ジェームズ・マクスウェルの3人を挙げていたといわれるが、ニュートンが研究され、その史実や評価が大きく見直されるようになったのは、アインシュタインの晩年、1930年頃からである。史上最大の物理学者であるアインシュタインでさえ、ニュートンの実像に触れることはなかったようである。
    明らかになってきたニュートンの実像は、20世紀前半までの人々がよく知っている「偉人ニュートン」とは、あまりにもかけ離れている。ニュートンがフックを消したりしなければ、貴重な科学の遺産が残り、科学の進歩はもっと違った展開をしたかも知れない。ばねの弾性の研究は「フックの法則」として知られるが、ここに示される係数「ヤング率」は18世紀末から19世紀にかけて弾性の研究を行ったトマス・ヤングに因む。17世紀に発見されたフックの法則に19世紀のヤングの名前が加えられるのは、とても不思議である。フックの名前がもう一度知られるまでには長い年月がかかている。
 ボイルの法則に続くガスの科学「シャルルの法則」は140年後である。