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第53回 現代物理学と量子論 3−1 分子の発見

 2018/02/14

    

ブラウン運動の発見
 20世紀初頭、ようやく、分子の実在が確められた。
 話の始まりは、19世紀の初めに発見された「ブラウン運動」に遡る。ブラウン運動による分子の説明は、日本の中学校の理科の教科書に出てくる。また、各地の科学博物館には、ブラウン運動と分子を解説する展示コーナーも多い。ブラウン運動は、日本の初等教育の課程にあるため誰もが習っているはずである。ここでは、ガス科学の視点から、分子発見につながったブラウン運動のことを、少し詳しく復習しておきたい。
 
 ロバート・フックは自ら製作した顕微鏡を使って、微小な世界を記述、歴史に残る大著ミクログラフィアを執筆し(1665年)、その中でコルクの中にある網目状の組織を記述、これをセル(cell、細胞)と名付けた。フックが発見したのは、細胞の抜け殻、細胞壁であるが、これが、生物の最小単位、細胞の概念の始まりとなった。
  およそ170年後、ロバート・ブラウン(17731858年、スコットランド)が、細胞の中の器官のひとつ細胞核を再発見した(1831年)。最初の化学者ロバート・ボイルと17世紀の万能人ロバート・フックが空気の研究を行ってから2世紀、分子の発見(ただし空気の分子ではなく水の分子)のきっかけは、同じ英国のロバート、植物学者のロバート・ブラウンであった。
   なお、ロバート・ブラウンという名前、同姓同名の有名人が多数いるため、検索するときは、植物学者(botanist, Robert Brown )を検索キーワードに含めるのがよさそうである。
 ブラウンは、植物の細胞の研究を行う中で、花粉から出てくる微粒子の運動を顕微鏡下で観察し、その結果を「植物の花粉に含まれている微粒子について」という論文で発表した(1827年)。花粉を水に浸すと花粉は水を吸って浸透圧で破裂、花粉の中からたくさんの微粒子が出てくるが、ブラウンはその様子を顕微鏡で観察し、微粒子が不規則に動く現象を発見した。この現象は、その100年以上前から知られていたようであるが、これが偶然のものではなく、普遍的な現象として観測・報告したのは、ブラウンが初めてであったため、この現象は「ブラウン運動(Brownian motion)」と名付けられた。
   ブラウンは、当初、花粉の中には生命の源が含まれており、これが微粒子を動かすものと考えた。また、生きている標本だけではなく、古代の植物標本や石炭の微粒子からもブラウン運動が観測されたため、植物の中には、「永遠に続く生命の原子」が存在するものと考えられた。しかし、その後、生物に由来しない無生物の微粉、鉱物、金属、煙、コロイドからもブラウン運動が見出され、「生命の原子」というものは存在しないことが分かった。
  生命科学の研究の過程で発見され、その後、無生物にもあることが分かったブラウン運動は、生物学者と物理学者双方の興味を引かなかったのか、その起源については解明されることがなく、長く科学の謎のままとなっていた。
ブラウン運動の理論
   ブラウン運動の発見から80年後、アルベルト・アインシュタイン(18791955年、ドイツ)が、ブラウン運動の起源を理論的に説明、これが分子の存在の実証につながった。
 アインシュタインは、世界最古の物理学雑誌、Annalen der Physikに投稿し掲載された論文 ”Uber die von der molekularkinetischen Theorie der Warme geforderte Bewegung von in ruhenden Flussigkeiten suspendierten Teilchen”(1905年)の中で、熱運動する水分子の衝突がブラウン運動の起源であることを説明した。
  この論文の長い表題は、邦訳すると「静止液体中に懸濁した微粒子の熱の分子運動論から要求される運動について」となり、表題のどこにもブラウン運動という言葉はないが、その内容から「アインシュタインのブラウン運動の論文」と呼ばれることが多い。
 アインシュタインは、同じ年に「光量子仮説」と「特殊相対性理論」の二つの重要論文を発表したが、これらの理論は、当時の大学では内容が理解ができず、博士論文としては受理されなかった。そこで、アインシュタインは、より分かりやすいであろうと考えて、この「ブラウン運動の論文」を博士論文として提出することにした。本文は短く、12ページしかないが、分子の存在を決定付ける重要な論文となった。
   アインシュタインは、ブラウン運動の論文の中で、熱平衡状態における微視的な分子運動と、巨視的に観測できる応答との関係を示す統計力学の法則、揺動散逸定理(fluctuation-dissipation theorem)を用いて、ブラウン運動の不規則な運動が、流れの中で粒子を引き留める力を生み出すことを明らかにした。アインシュタインの関係式は、次式で示される。
 
   ここで、Dは平衡状態におけるゆらぎを特徴づける拡散係数、μは、非平衡での外力への応答を表す易動度(移動度)、R=8.314J/(K・mol) は気体定数、NA はアヴォガドロ定数(当時はアヴォガドロ数)、kB=1.386×10-23J/K はボルツマン定数、T は熱力学温度(当時は絶対温度)である。
  一番右の右辺のかっこの中は、拡散係数と易動度の比例関係を示し、温度Tの環境におけるエネルギー、平衡統計力学の本質を表わす項とされる。(統計力学におけるミクロの現象ととマクロの現象を橋渡しする「ボルツマンの関係式」は、ルートヴィッヒ・ボルツマンよって18721875年に発見されており、気体定数とアヴォガドロ定数は上式のようにボルツマン定数で書き記すことができた)
   驚くことに、アインシュタインの関係式と同じ結論が、ほぼ同時に3人の研究者から発表されていた。1904年にウィリアム・サザーランド(18591911年、スコットランド)、1905年にアインシュタイン、1906年にマリアン・フォン・スモルコフスキー(18721912年、オーストリア=ハンガリー帝国・ポーランド)が独立して導いているのである。
   当時、アインシュタインはスイス特許庁の特許審査官であり、サザーランドはスコットランド生まれでオーストラリアのメルボルンの新聞記者で時々大学の講師の職につくという研究生活を送っていた。スモルコフスキーは、ポーランド・ルワフ大学の物理学者でコペルニクス協会というポーランドの学術会議の会長である。
  現在のように情報が瞬時に伝わる時代ではない。3人は、それぞれが遠く離れたオーストラリア、ドイツ、ポーランドにいて、全く異なる立場・環境にありながら、独立して同じ結論を導いていたということになる。科学の世界につきものの先取権争いのようなものは、この式については聞いたことがない。アインシュタインの関係式は、サザーランド−アインシュタインの式、あるいは、アインシュタイン−スモルコフスキーの式とも呼ばれている。(いずれにしてもアインシュタインの名前は入っている。)
 
独立して同じ時期にブラウン運動の理論を明らかにした3人の科学者
   ここで、粒子が3次元の「球形」であり、低レイノルズ数の液体中を拡散するとした時、ゆっくりと移動する球体に働く抵抗力に関する流体力学のストークスの式  を用いると、次のストークス−アインシュタインの式が得られる。
 
   ここで、ηは流体の粘性係数(viscosity coefficient)、aは球形粒子の径(ストークス半径)である。粘性係数は、ニュートン流体における速度勾配とせん断力の比例関係を表わす式の係数であるが、物性として取り扱う時もあり、その場合は「粘度(viscosity)」と呼ぶ。
 揺動散逸定理は、「熱平衡にある系が摂動を受けた時に示す応答は、系の自発的なゆらぎに等しい」という仮定から導かれる「ゆらぎと抵抗の関係を表わす」統計力学の定理であり、見えないほど小さな分子の運動と巨視的に観測できる現象を関係づけている。統計力学はアインシュタインが最も得意とする分野だと言われていて、その後もこの分野での業績は多い。(物理学最大の天才であるアインシュタインにも得手不得手があるらしく、数学はあまり得意ではないと記述する本もあるが、そのレベルは凡人には理解ができない)
   ストークス−アインシュタインの式と詳細な実験から分子の存在を確認することができる。
 よく知られているように、この時、アインシュタインはスイス特許庁の職員であって研究機関に勤める研究職ではない。研究室や実験室がなく共同研究者もいないため、この理論を証明する手段がなく、論文の中で次のように述べている。
  「温度17 度の水の中に直径1 ミクロンの粒子があるとすれば,気体分子運動論から期待されるアヴォガドロ数の値と実験から得られる粘性係数、拡散係数から、平均自乗変位が得られ、毎分6ミクロンほど粒子が動くはずである。このことは、熱理論にとって重要であるから誰かに実験してもらいたい」。
  温度17度は17℃、ミクロンは現在の1 μm、アヴォガドロ数は現在のアヴォガドロ定数と読み替えることができる。
ブラウン運動の理論、分子の発見
 
 パリ大学の講師であったジャン・バティスト・ペラン(18701942年、フランス)は、アインシュタインの論文に基づいて、ブラウン運動の精密な測定を始めた。
  ペランは、原子核のまわりを電子が回っているという、原子模型を最初に発表(1901年)、長岡半太郎が、より詳細な原子模型(1904年、長岡の土星モデル)に発展させている。ペランは、物質や原子の研究を行う物理学者であり、大学に籍をおく研究者である。そのペランが、無名のアインシュタインが提出した論文に注目し、実験に着手したのである。アインシュタインは、論文の中で簡単に実験の手順を示した。しかし、実際に行われる実験は容易なものではなかった。
    ペランは、粒子径がほとんどそろったコロイド溶液を用意し、0.1mmの深さの水中で顕微鏡を使ってブラウン運動を観察、拡散係数を測定した。粒子径を揃えて実験の準備をすることも容易なことではないが、光学顕微鏡の下でブラウン運動をただ眺めるのではなく、微粒子の動きを観察して測定するという実験は非常に難しいと想像できる。
  ストークス−アインシュタインの式のうち、粘性係数、気体定数、熱力学温度は、マクロな実験から決めることができるので、微粒子の動きから残りのアヴォガドロ定数が求められる。ペランが得たアヴォガドロ定数は、他の独立した方法で得られたアヴォガドロ定数の測定値とよく一致し、アインシュタインの理論の正しさが証明された。
   統計力学は、マクロスコピックの現象とミクロスコピックの振る舞いを結びつける重要な学問であり、それまで観察することができなかった分子の存在を示す方法がアインシュタインの理論によって明らかにされ、この理論に基づいたペランの実験によって分子の存在が証明され、ペランはノーベル物理学賞を受賞した(1926年)。
 ボイルやドルトンの時代から目に見えない小さな粒子、分子、原子の存在が信じられてきたが、その存在を確証するものは長い間、得られておらず、分子は仮想の粒子、人々の想像上のものであった。20世紀になってついに分子の存在が確かめられ、分子は架空のものではなく実在することがわかった(ただし、ペランが行った実験は、空気の分子ではなく水分子の存在を証明した)。
実在気体の研究から分子の発見までの歴史
 

ガスの科学に関連する気体の液化と分子の発見の歴史

法則・発見

人物

理論・結果など

17世紀      

1662

ボイルの法則

ロバート・ボイル

気体の弾力(圧力)の概念

18世紀      
1788 ラグランジアン ルイ・ラグランジュ ニュートン力学を再定式化した解析力学。
エネルギーを表す関数ラグランジアンと作用の概念。最小作用の原理の発見
19世紀      

1801

ドルトンの法則

ジョン・ドルトン

原子・分子説

  シャルルの法則の定式化 ルイ・ゲイ=リュサック 温度の概念を発明

1807

エネルギーの概念

トマス・ヤング

 

1811

アヴォガドロの法則

アメデオ・アヴォガドロ

原子・分子説

1827 ブラウン運動の再発見 ロバート・ブラウン  

1832

塩素の液化

マイケル・ファラデー

様々な気体を液化

1861

ジュール=トムソン効果の発見

ジェームズ・ジュール
ウィリアム・トムソン

理想気体にはない実在気体の性質を発見

1865 エントロピーの発明 ルドルフ・クラウジウス  

1869

元素の周期表

ドミトリ・メンデレーエフ

周期律の理論

1869

臨界点の発見

トマス・アンドリューズ

 

1873

実在気体の状態方程式

ヨハネス・ファン・デル・ワールス

実在気体・液体を表す方程式

  自由エネルギーの発明 ウィラード・ギブス  

1877

アセチレンの液化
二酸化窒素の液化

ルイ・ポール・カイユテ

JT膨張を利用

1882 自由エネルギーの発明 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ  

1883

酸素の液化

ジグムント・ヴルブレフスキ
カオル・オルショウスキー

 

  窒素の液化  

1894

アルゴンの発見

レイリー
ウィリアム・ラムゼー

 

1896

水素の液化

ジェームズ・デュワー

JT膨張を利用

20世紀      

1904

ブラウン運動の理論

 

ウィリアム・サザーランド

分子の存在を実証

1905

アルベルト・アインシュタイン

1906

マリアン・フォン・スモルコフスキー

1908

ヘリウムの液化

ヘイケ・カメルリング・オネス

永久ガスの消滅

1909

ブラウン運動による分子の発見

ジャン・バティスト・ペラン

分子の実在を証明

  エンタルピーの発明 ヘイケ・カメルリング・オネス  

1911

金属の超電導の発見

ヘイケ・カメルリング・オネス

 

1925

ボーズ・アインシュタイン凝縮

サティエンドラ・ボーズ
アルベルト・アインシュタイン

レーザーのドップラー効果で原子の動きを封じ込める超低温冷却法につながる

1926

ヘリウムの固化
ヘリウム3の液化

ウィレム・ヘンドリック・ケーソン

高圧下でヘリウムの固化に成功

1937

ヘリウムの超流動の発見

ピョートル・カピッツァ
ジョン・F・アレン
ドン・マイスナー

 

1950年

ポメランチュク効果、
ポメランチュク冷却

アイザック・ポメランチュク

液体の方が固体よりもエントロピーが小さい状態をヘリウム3で発見

1951

希釈冷凍の発明

ハインツ・ロンドン

ヘリウム同位体の希釈溶解を利用した極低温発生

   なお、産業ガスを紹介する記事では、初めて酸素を液化したのはルイ・ポール・カイユテ(1877年)であるとする記述が多く見られるが、低温工学・超電導学会の資料では、最初に酸素と窒素を液化したのは、ジグムント・ヴルブレフスキとカオル・オルショウスキーである(1883年)としている。
 カイユテは、実験室のガラス管内で減圧時に酸素の液化現象(霧)を観察したが、ヴルブレフスキらは、酸素と窒素を液化プロセスによって実際に液化することに成功したというのが事実のようである。
  酸素が液化するところを見たということと液化操作を行って酸素の液化に成功したということには大きな違いがあると思うが、初めての酸素の液化を、液化操作が重要であるはずの産業ガスの業界誌がカイユテ、学術研究とその応用が重要である学会の方がカオル・オルショウスキーとしているのが少し不思議ではある。