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第54回 カラム(6) 誤ったブラウン運動の説明

 2018/02/14

    

誤ったブラウン運動の説明
 日本の中学校の理科では、「原子や分子の実在を実感させるための実験」としてブラウン運動の観察を取り入れている。ブラウン運動は、身のまわりの物質を利用して原子や分子の存在を明らかにできる唯一の教材とされている。しかし、かつて「ブラウン運動は花粉が動く現象」と、教科書までもが間違った説明を行っていたことがある。
 ブラウン運動が顕微鏡下で観測されるのは、花粉からでる微粒子(デンプン粒子)である。ブラウン運動で花粉は動かない。
   水分子の大きさは、およそ3×10-10m3Å)であるのに対し、一般的な植物の花粉は5×10-5m50μm)ほどである(花粉症の原因物質として有名なスギ花粉で30μm程度)。水分子を直径10cmのボールにたとえると、花粉の直径は5桁も大きく2000mくらいになる。水分子がいくら激しく運動しても、それによって花粉が動くことを観測することは不可能である。厳密な計算をしなくても、これだけ大きさが異なると花粉が動かないことが直感的に想像できる。
 アインシュタインは、ブラウン運動の測定が可能な微粒子の大きさをおよそ1ミクロン(10-6m)と推定したが、この比率だと、直径10cmのボールに対して微粒子の直径は333mということになる。これくらいの大きさの違いであれば、激しく運動する水分子がボールに微粒子にぶつかり、それが全方向から近等であれば動かないが、分子の運動は統計力学的にばらつくため、ブラウン運動として観測できるので、計算できるというのがアインシュタインらの主張である。かなり小さな花粉であっても、この微粒子の50倍から100倍は大きい。
  膨大な数の水分子が激しくぶつかれば、花粉であっても全く動かないということはないだろうが、理論上、光学顕微鏡ではブラウン運動が観察できるほど、花粉は小さくはないのである。
 
 実際に顕微鏡を用いて観察してみれば、花粉がブラウン運動をしないことは明白であるが、間違った情報が伝わった経緯を調べた報告がある。
 国立教育研究所・物理学研究室の板倉聖宣氏が、「思い違いの科学史」(朝日新聞社、1970年)の中でブラウン運動にまつわる誤解を調査したことを解説している(6名の共著による24篇の事例のうちのひとつがブラウン運動の間違い)。板倉氏自身が、教育用の映画を製作する時にブラウン運動を撮影しようとしたが花粉は全く動かず、それまでブラウン運動で花粉が動くのが見えると思っていた自身の知識が間違いであったことに初めて気付いたという。
 板倉氏らが調べたところ、驚くことに長岡半太郎をはじめとして日本を代表する数多くの優秀な研究者がその著書の中で、ブラウン運動で動く花粉が観察されるという誤った記述をしているのだという。その学者の中には、なんと湯川秀樹や坂田昌一までも含まれるという。これほどの大物が間違えたのである、当時の理科の教科書の大半が間違え、その教育を受けた大勢が間違えたというのも無理はない。
    当時出版された科学の本には、「顕微鏡を使って水分子によって動く花粉を見た」という学者の対談記事まで存在し、「倍率の劣る顕微鏡でも大きな花粉なら見える」のでブラウン運動を観察できるとさえ書かれているという。
 もともと動かない花粉がさらに大きくなれば、益々動かないはずであり、対談した学者が実際に実験を行っていないことは明白である。ここまでくると、これは思い違いというようなものではない。実験や観察を行ってもいないのに「見た」というのであれば、あきらかな嘘、作り話ということになる。
  もし実際に水中の花粉を観察してそれがゆらゆら揺れているというのであれば、それは水分子のブラウン運動とは関係のない現象であって、分子の存在を決定づけた実験とも関係がない。ペランは苦労して行った実験とは全然違うのである。
 「分子を議論する物理学者や化学者は、実際には花粉を顕微鏡で見たことがなく、興味もなかったのに、まるで自分で見たことのように花粉のブラウン運動を伝えた」、「これが活字になって出版されていたということが大問題であった」と板倉氏は述べている。
   板倉氏以外にも、実際に実験を試みて花粉がブラウン運動しないことに気付き、ブラウン運動を記述した一連の著作が誤っているということを指摘した科学者もいたが、多くの教科書や書籍が訂正されることがなかったという。
  板倉氏によると、「欧州でも、同様の間違いが見られたが、原文に触れやすく、科学教育の内容の見直しや確認が行われる機会が多いという環境もあって、ほとんどの書籍が訂正されたが、日本ではあまり原論文のチェックをしないため、一度、間違いが広まると、長く訂正が行われず、嘘が広まるらしい」ということのようである。
  類似の間違いとしてよく知られているのが、周期表を周期律表と間違える記述である。周期表は周期律に基づいて作られた元素のテーブルであって周期律の表ではなく、元素の周期表である。この場合は、日本語の用語の使い方の間違いであるが、ブラウン運動の場合は、花粉と花粉の中の微粒子を取り違えるということが、現象の理解そのものの間違いであって内容としてはより深刻である。
   ブラウン運動で花粉が動くという嘘情報が流れた「事件」は、高名な学者でさえ誤解した情報を流布することがあるという事例としてはよく知られているもののひとつである。いかに優秀な先生が書いた本であっても、やはり最終的には自分で考え、納得しなければならないという教訓となっている。
  われわれが、ブラウン運動の原書に触れることはほとんどない。しかし、どこかおかしい、水分子に比べてはるかに巨大な花粉が本当に動くのか、といった疑問を持つことが必要である。
 花粉と花粉の中の微粒子の取り違いは、大した違いではないという議論もあったようであるが、一般的には、3桁も大きさが異なるものを、ほとんど同じものだということはない。
  「思い違いの科学史」の中には「黄熱病の菌をみた(中山茂)」という章もある。黄熱病はウィルス性疾患なので光学顕微鏡では見えない。細菌はμm、ウィルスは50nm程であり、2桁くらい大きさが異なる。
  ただ単に非常に小さいとはいっても、その中には異なる階層があり、ひとまとめにすることはできないことが多い。ガスの科学を考えるときにも、常に大きさの階層を意識して桁を考えておかなければならない。たとえば、原子と原子核も大きさが3桁くらい違う。したがって、同位体を議論する時は、同位体の違いと分子の違いを混ぜこぜにしてはならない。同じ元素の同位体どうしでは、原子核レベルでの重さの違いはあるが、それは原子の大きさの1000分の1くらいしかない原子核の中での話であり、原子レベルでの違いと混同してはならないということである。
  最近はやりの「ナノ」というのは、1から100nm10-9m107m)の間の話しである。1nmは、原子・分子よりひと桁くらい大きく、100nmだと0.1μmなので光学顕微鏡による観察範囲に近づく(可視光の顕微鏡の解像度の限界はおよそ200nm、0.2μm)。ナノといっても幅広い。
   花粉と花粉の中の微粒子を間違えたこのブラウン運動の誤報事例から学ぶべきことは、桁を勘違いすると大間違いすること、権威と言われる人でも大変な間違いをすることがあること、である。何かおかしいと思ったら自分で計算してみることが重要だと思う。
  我々は、40年くらい前に「40年もしないうちに石油は枯渇する」と教えられた。学界の権威や優秀なシンクタンクや政府機関が、石油を「化石燃料」と断定して、資源枯渇ホラー話を喧伝した。当時子供だった人たちの多くが見事に大人たちの嘘に騙された。21世紀の今になっても石油は枯渇せず、可採埋蔵量は一向に減る気配がないが、石油が無くならずに良かったということなのだろう、枯渇を唱えた人は誰も謝罪をしていない。
 石油枯渇の話が出たときはまだ高校生だったので、権威ある学者や大人たちの話を信じてしまったが、大人になって、石油や天然ガスが、化石資源なのか地球が生み出す無尽蔵のものなのか、科学的な結論には至らず、学問上の決着は未だについていないことに気づいた。一方の意見や数字だけを信用して、自分で考えるということを怠ると騙されてしまう。
 ブラウン運動の誤解事件は、どんな情報に対しても、思考停止せず自分で考えるべきであるという教訓であり、科学の真実は声の大きさや多数決には依存しないということを教えている。