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ブレーズ・パスカル(1623〜1662年、フランス)は、山の頂上と麓でトリチェリの実験を行い、水銀柱の高さの違いを見出し(1648年)、気圧の存在を研究した。 オットー・フォン・ゲーリケ(Otto von Guericke)は、真空ポンプによって二つの半球の中の「空気」を抜き、そこに作り出された真空と大きな大気圧によって押さえつけられた二つの半球は、その両側を16頭の馬で引っ張っても離れないことを示した。かの有名な「マクデブルクの半球実験」(1657年)である。この実験によって、「より具体的な形の真空」が作り出され、「真空嫌悪説」が誤りであることが決定的となっていった。 ゲーリケは、真空ポンプによって、それまで不可能と思われていた真空を実現し、空気が圧力を持つこと、大気圧の存在を証明し、半球が離れないのは周囲にある「空気」が圧力を持つためであることを示したのである。マクデブルクの半球は、現在でも中学理科で、真空と大気圧を学び、見えない空気を実感するための実験としてよく取り上げられており、市販品や教材の製作方法、実験の方法などについての情報も多い。 竹内淳著「高校数学でわかるボルツマンの原理」講談社ブルーバックス43ページには、マクデブルクの半球実験の様子から、大気圧と球にかかる力、これを引く馬の数などから、半球の大きさを計算。直径30〜50cm程度ではなかったかと推測している。 |
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マクデブルク市は、現在のドイツのザクセン=アンハルト州の州都。ベルリンの真西にある。 ゲーリケは、ライプチヒ大学に進学、三十年戦争の間は英国、フランスと渡って数学や物理を勉強したが、彼が帰国した時には、マクデブルクの街は、神聖ローマ帝国軍とハンザ同盟都市マクデブルクの間で起こった「マクデブルクの戦い(1630〜1631年)」によって壊滅していた。その後、ゲーリケは、非常に長い期間、マクデブルクの市長の職にあり(在任:1646〜1676年)、市は戦後復興を遂げた。 ゲーリケは、その市長在任中に数々の「物理学」の研究を行い、真空ポンプを製作して(1650年)、真空嫌悪説を破る半球実験を行った。(当時は、まだ「物理学」という統一された学問はないので、実際は、機械の研究や気体の研究などの個別の学問である) |
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また、ゲーリケは、真空を利用した気圧計を用いて天気の予想を行っており、これが科学的気象学のさきがけとなった。 なお、摩擦によって電気を起こす摩擦起電機を最初に発明し、静電気による反発を発見したのもゲーリケである。静電気と真空(絶対的空間)という二つのテーマが、政治家であるゲーリケが残した最も有名な科学的業績である。 一方、ゲーリケは、このマクデブルクの半球実験を自らは公表せず、著書の中で公にしたは20年も後のことである。しかし、イエズス会修道士のガスパール・ショット教授(1606〜1660年、ヴュルツブルク)が、その著書「流体力学、Gaspar Schott, Mechanica Hydraulico-pneumatica」(1657年)の中でゲーリケの実験を紹介したため、欧州の人たちは、間もなく、この実験のことを知ることになり、イングランドにいたボイルもそのひとりであった。 真空を作り出す当時の「真空ポンプ」という仕掛けは、非常に製作が困難なものであり、同様のポンプの製作に成功したのは、ゲーリケとボイルの二人だけだったようである。現代の真空ポンプや空気ポンプを知る我々には想像が難しいが、これらの機械は「17世紀の巨大科学」とも言われるほど高価で大掛かりなものである。 |
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